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2016.08.31

中村一義「microKORG」インタビュー Powered by CINRA.NET

あの人の音楽が生まれる部屋 Vol.29 Powered by CINRA.NET
中村一義が振り返る、絵描きの夢を捨てて歩みはじめた音楽家人生

インタビュー・テキスト: 黒田隆憲  撮影:豊島望 編集:山元翔一
 

1997年、シングル『犬と猫/ここにいる』とアルバム『金字塔』でシーンに颯爽と登場したシンガーソングライター、中村一義さん。「状況が裂いた部屋」と名付けたプライベートスタジオにて、たった一人で作り上げたそのサウンドスケープは、今なお「宅録ミュージックの先駆け」として多くのミュージシャンに多大なる影響を与え続けています。

その後も彼は、バンド「100s」名義で活動したり、ベートーヴェンと対峙した問題作『対音楽』をリリースしたり、最近は新バンド「海賊」を率いての活動を始めたりと、「過去のキャリア」にとらわれることなく自分の信じる道を突き進んできました。彼の強さは、一体どこから生まれたのでしょうか。100s時代からの朋友・町田昌弘さんがギターで参加した配信シングル『世界は変わる』をリリースする彼のプライベートスタジオ「100st.」を訪ねました。

こちらの記事はCINRA.NETでもお読み頂くことができます。

中村一義(なかむら かずよし)

1997年、シングル『犬と猫 / ここにいる』でデビュー。セルフプロデュース、そしてすべての楽器をほぼ一人で録音したデビューアルバム『金字塔』は独特な日本語詞と卓越したポップセンスにより、日本のロックシーンに多大なインパクトを与え、4枚のアルバムリリースしている。2004年にはバンド「100s」を結成。バンドとしての活動を経て、2012年には約10年ぶりにソロ名義で再始動し、アルバム『対音楽』を発表。2016年3月には、4年ぶりとなる最新アルバム『海賊盤』をリリース。

画家を志すも、挫折。中村一義が音楽に目覚めた強烈な出会い
 
音楽を始める前は、絵を見たり描いたりするのが好きだったという中村さん。ピカソやゴッホ、シャガールに憧れ、中学に入学する頃には「絵描き」を志望。いきなりキャンバスを購入すると、独学で油絵に挑戦しました。しかし、いくら描いてみても「模倣」の域をどうしても脱することができず、オリジナリティーの壁にぶちあたります。

中村 :「こんなんじゃ絵描きにはなれない。そもそも俺に、絵の才能なんてないのかな」と落ち込みましたね。僕はいつも絵を描くときにはラジオを聞いていたんですけど、ある日The La'sの“There She Goes”が流れてきて、「一体、今まで何をやってきたんだ?」って身体中に衝撃が走って。3分もない曲なんですけど、心を鷲掴みにされて人生が変わりました。それで、「これからは音楽をやります」と自分に宣言し(笑)、それまで描いてきた絵を全て焼きました。

 

中村一義



|「オリジナル」にこだわり続けてきた表現者としての原点
 
中村さんはこの日を境に音楽へ一気にのめり込み、主に洋楽を聴き漁るようになりました。ちょうど1980年代が終わり、イギリスではインディーロックが台頭し始める頃。アラン・マッギー主宰のレーベル「Creation Records」のカタログなどを、夢中で掘っていたそうです。特に、Primal Screamの『Screamadelica』(1991年)から多大な影響を受けたという中村さん。同時に日本のロックにも興味を持つようになり、特にTHE BLUE HEARTSの歌詞はストレートに胸を打ちました。

中村 :絵にしても音楽にしても、ただインプットするだけでなく、自分自身の「表現」としてアウトプットしたいという気持ちが常にあって。自分という「フィルター」を通して表現したときに、どんなものが生まれるのか知りたいという欲求が、小さい頃から強かったんですよね。だからその形は別に音楽でも絵でも、何でもよかったのかもしれません。ただ、海外の色んな音源を聴いていくうちに、「これを日本にも紹介していきたい!」という思いも強くなっていきました。僕は佐野元春さんが大好きなんですけど、彼も海外の音楽を積極的に取り入れて紹介していますよね。そういう部分にすごく共感するんです。

絵画と同様、音楽活動もいきなりオリジナル曲を作ることから始めた中村さん。高校入学と同時にオールインワンシンセとサンプラーを手に入れ、当初は打ち込みでテクノを作っていたそうです。電気グルーヴのトータルアートとしての存在に影響を受けていた中村さんは、「映像担当」の友人とライブをしたり、音源を制作したりしていました。

中村 :それも結局、鳴かず飛ばずの状態で。レコード会社に音源を送ってみましたが、全く反応がありませんでした。そうこうしているうちに高校卒業の時期が近づいて、友人たちはみんな就職口が決まっていくわけですよ。教室の後ろにある黒板に、全員の進路が書き出されていくなか、最後の最後まで空白だったのは僕だけ(笑)。そのまま高校を卒業しました。

 

中村一義の使用機材「microKORG」



オリジナリティーを模索するなかで再会を果たしたThe Beatlesの存在
 
小学生のときに両親が離婚したあと、祖父母の家で暮らしていた中村さん。大学には入らず、進学用の支度金として祖父母が準備してくれたお金を使い、自室をプライベートスタジオ「状況が裂いた部屋」に改装、The Beatlesのメンバーが使っていたものと同じ楽器を持ち込み、独学で演奏をマスターしながらひたすら音源を制作するようになりました。

 


中村 :The Beatlesとは「再会」したような感じだったんです。それまではテクノとか、当時のUKロックとかを聴いていたんですけど、どうあがいても“There She Goes”みたいな曲が書けないのは、ルーツと向き合っていないからじゃないかと思うようになって。僕が祖父母からあてがわれた部屋というのは以前、音楽好きの叔父が住んでいたこともあり、ドラムやギターが転がっていたんですよ。そんな空間でThe Beatlesを聴いていると、自分のルーツに出会えたような気持ちになれたんですよね。祖父や叔父、親父と、The Beatlesを通じてつながっているような感覚というか。それからは、生楽器主体のサウンドを目指すことに決めました。なぜだかわからないけど、楽器は自然と弾けるようになったんです。改めてその理由を考えると、「今、この場所にThe Beatlesを召喚させてやる!」と本気で考えていたからかもしれませんね(笑)。