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2017.09.08

大沢伸一「MS-20 Kit」インタビュー Powered by CINRA.NET

あの人の音楽が生まれる部屋 Vol.34 Powered by CINRA.NET
大沢伸一がプライベートスタジオで語る、制作の秘密とポップス論

インタビュー・テキスト: 黒田隆憲  撮影:中村ナリコ 編集:山元翔一
 


1993年にデビューし「アシッドジャズムーブメントの担い手」として国内外で高い評価を獲得したバンド、MONDO GROSSOのリーダーにしてベーシストだった大沢伸一さん。その後バンドを解散しソロプロジェクトになってからもコンスタントに作品をリリースし続け、本人名義によるコンポーザー / DJ / プロデューサー活動と並行しながら、自身の「ライフワーク」として常に進化を遂げてきました。

そして今年、前作『NEXT WAVE』からおよそ14年ぶりとなるオリジナルアルバム『何度でも新しく生まれる』をリリース。birdやUAといった朋友たちに加え、満島ひかりや齋藤飛鳥(乃木坂46)など異色のボーカリストをフィーチャーし、「全曲日本語ボーカル」というキャリア史上初の試みを行なっています。さらにはMONDO GROSSOとして、『FUJI ROCK FESTIVAL '17』への出演も決定。20年以上のキャリアを持ち、今なお精力的に活動を続ける彼のモチベーションは一体どこにあるのでしょうか。都内某所のプライベートスタジオを訪ねてきました。
こちらの記事はCINRA.NETでもお読み頂くことができます。

大沢伸一(おおさわ しんいち)

1993年のデビュー以来、MONDO GROSSO、ソロ活動を通じて、革新的な作品をリリースし続けている音楽家、DJ、プロデューサー。1990年代はUA、Chara、birdなど数多くのディーヴァを手掛け、近年も安室奈美恵、JUJU、AFTERSHOOLなどにそれぞれの新境地となるようなプロデュース楽曲を提供している。また、トヨタ・オーリスやユニクロなど多数のCM音楽を手掛けるほか、アナログレコードに特化したミュージックバーをプロデュースするなど音楽を主軸として多方面に活躍。2017年6月、MONDO GROSSOとしての14年ぶりのアルバム『何度でも新しく生まれる』を発表した。
 

少年の頃から、バンドよりも「宅録が楽しかった」
 

滋賀県大津市出身の大沢伸一さん。1970~80年代に幼少期を過ごしたほとんどの人がそうだったように、テレビやラジオの歌番組などを見たり聴いたりしているうち、自然と音楽が好きになり、思春期を経て様々なジャンルの音楽に出会うようになっていきました。

大沢 :僕らの世代はきっと、YMO(Yellow Magic Orchestra)の影響がすごく大きいんじゃないでしょうか。テクノミュージックの黎明期で、ゲームセンターの「スペースインベーダー」が大ブームになったり、町中で“ライディーン”(YMOの楽曲)が流れたりしているような時代ですから。ある意味、YMOは「現象」だったと思います。

 

大沢伸一



 

大沢 :自分で音楽をやるようになったきっかけは、家にあった父親のガットギター。それをチョロチョロ弾いているうちに、気がついたら年上の人たちに誘われてバンドを始めていました。担当楽器はベースで、ニューウェーブ系の音楽をやっていましたね。そこでいろんな音楽を教えてもらったんですけど、自分としては宅録をやっているほうが楽しかった。

当時はまだサンプラーなんて高額で手が届かなかったから、デジタルディレイの機能を利用して、サンプリングの真似事なんかをしていました。いろんなスタイルの音楽を、たくさん作りましたよ。今手元に残っていないのは残念ですが(笑)。

 

取材中、「ジャンル分けはしない」と繰り返した大沢を形成したもの
 

高校を卒業すると、昼間はアパレル店員として働きながら、夜はバンド活動というサイクルがしばらく続きました。いくつかのバンドをかけ持ちでやった後、ようやく自分のリーダーバンドを結成。それが後にMONDO GROSSOとなったそうです。

大沢 :集まったセッションメンバーは、それまでのニューウェーブバンドと比べるとファンキーな要素が強くなっていたし、演奏の達者な人たちが多かったので、セッションでのグルーヴを重視するようなバンドへと徐々に変わっていきました。やる曲もファンクやジャズファンクなどで、それが当時盛り上がりつつあったアシッドジャズシーンに近くなっていくんです。

 



 

大沢 :ただ、聴いている音楽はすごく雑多でした。ジャンルで分けて聴かないので、たとえばニューウェーブを聴いているなかでTalking Headsを知り、そこからアフリカ音楽を聴くようになってフェラ・クティに出会ったり、ジェームス・チャンスを聴いてジェームス・ブラウンに遡ったり、ニューウェーブのなかにあるラテンの要素に気づいてブラジル音楽を聴いたり……。

そもそもニューウェーブはジャンルではなくて精神性のようなもので。僕は、「ニューウェーブ」というフィルターを通していろんな音楽に出会うことができたんです。

 

1995年に行われたヨーロッパツアーのライブ映像



  海外での評価も「当たり前」と言い切る大沢の考え
 

同じ頃、KYOTO JAZZ MASSIVEを結成した沖野修也と出会った大沢さん。二人は意気投合し、様々なイベントを主催するようになります。一方、東京では松浦俊夫を中心に結成されたUnited Future Organization(UFO)が、ジャズファンクやボサノバなどを選曲したイベント『Jazzin'』を開催し、アシッドジャズシーンは東西二大勢力によって大きなムーブメントへと発展していきました。

大沢 :確かに、東京への対抗心はあったし、「京都発」という意識もあったかもしれないです。ただ、ずっと京都にいるままでは何も起こらないこともわかっていた。なので、MONDO GROSSOでライブをやり始めてから、1年も経たないうちに東京を行き来するようになっていったんです。

沖野くんがMONDO GROSSOのマネージャーを買って出てくれ、そのうち様々なレーベルから声がかかるようになって。ただ、その頃のMONDO GROSSOにはフレンチアフリカンのB-BANDJというラッパーがメンバーにいたんですけど、当然ラップは英語じゃないですか。「このままの形でやらせてくれるというなら」という条件を出したところ、唯一手を挙げてくれたのが「FOR LIFE RECORDS」だったんです。

1993年、1stアルバム『MONDO GROSSO』でメジャーデビュー。作品は海外でもリリースされ高評価を獲得します。2ndアルバム『Born Free』(1995年)を発表後はヨーロッパツアーも敢行するなど、海外に視野を向けた活動が印象的でした。

大沢 :当時は海外でレコーディングをしたり、ツアーに出たりしたことで、日本での評価も上がりましたし、僕らも素直に嬉しかったけど、今考えると当たり前のことかと。そもそも僕らインストバンドなので、言語の壁もないわけですから。

なんというか、考え方次第のような気がします。何でもそうですけど、「ハードルが高い」と思えば思うほど高くなっていく。でも、視野を広く持ち、遠くを見ていれば、「飛べない」と思っていたところが割とあっさり飛べることってあると思うんです。